保科洋 CD掲載インタビュー全文


1.先生と音楽の出会い

家にはピアノがあったものの、誰も音楽をやっていない家で育った保科先生。
音楽の出会いは、第二次世界大戦直後の疎開先、茨城でのこと。

「昭和20年の終戦を疎開先の茨城、小学4年生のときに迎えた。教科書も無い程何もなかったけど、やっと手に入れた自由のなかで、代用教員として赴任して来た音楽好きの担任の先生が『みんなで音楽を学ぼう!』といって音符を読むことを教えてくれた。子供なのでどんどんと音符の読み方、書き方を覚えていく。そうしたら、先生は『メロディーを作曲してみよう』と言った。しかも良い曲は下級生の音楽の授業のテキストとして使われる、というおまけ付きで、、、僕の曲は何曲も選ばれ、子供心にとても嬉しく、作曲家になりたいと思い始めた。」

舞台は疎開先から、千葉県市川市へ
「村上正治先生との出逢い」
「千葉県市川市に小学6年生の終わりに戻って来た。中学に進んで村上正治先生※に出逢った。先生は『子供達に良い音楽を聞かせよう』をモットーに戦後いち早く市川交響楽団を創設した素晴らしい教育者で、中学生の僕をそこに参加(打楽器)させてくれた。茨城での経験のおかげで、楽譜が読めたのは中学では僕、1人。みんなにとてもちやほやされた(笑)
村上先生の勧めもあって本格的に音楽、作曲家を目指そうと志し、先生のもとへレッスンに通いはじめたのだが、最初に教えられた「和声学」は中学生の僕にはとても退屈で難解で、しだいに足が遠のいてしまった。」
※村上正治先生、勲四等瑞宝章を始め数々の文化賞を受賞された千葉県の音楽文化の生みの親、中学生の時に先生に出逢えたことは幸運としか言いようがありません。(村上氏のプロフィールの詳細はインターネットで拝見することができます)

高校で、人生のターニングポイント!
「作曲家への憧れはあったが、村上先生に不義理を重ねてしまった僕は、高校へ進学し、音楽は諦めるつもりであった。」しかし、そこで運命の出会いが、
「もう、音楽の道には進めない、と諦めて入った高校にオーケストラ部があった!当時の日本でオーケストラ部がある高校は全国で2校しかなかったのに、その一校が僕の両国高校。そのオーケストラ部の3年生に早川正昭さん※がいて、みんなを引っ張っていた。楽譜も楽器も不十分な中、楽器を工面しメンバーの力に合わせた編曲をするなど、生徒たちだけで一生懸命音楽をやっていった。そこで僕の抑えていた音楽への熱が再燃する事となった。」
高校生の時、音楽の道を志そうとした後輩・保科先生に早川正昭さんは「音楽はやめたほうがいい!お前には無理だ!」と諭していたそう。その後、早川さんは東京大学に進学したものの、音楽の道を捨てきれず、東京藝術大学に進学。先に藝大に入学していた保科先生の後輩になった。しかし、保科先生が留年(!)したので、一緒に卒業。「先輩で後輩で同期生の早川さん」と紹介する仲。
※早川正昭氏、オーケストラの楽器をすべて演奏でき(プロとして出演料をもらった)、モーツァルトの序曲をたった一人で多重録音をしてしまう、というたぐい稀な秀才・天才、専門は作曲家・指揮者。(早川氏のプロフィールの詳細はインターネットで拝見することができます。)


2.保科先生と吹奏楽

東京藝術大学へと進学した保科洋先生
そこで盟友・兼田敏と出会う
「大学の同級生に兼田敏がいた。彼は一時期、うちに下宿していたので、文字通り正真正銘の『同じ釜の飯を食った仲』だった。兼田は学生の頃から売れっ子の作曲家で、ある日、『中学高校の吹奏楽部の子たちを対象に、聞き馴染みある曲を半年で60曲編曲する』という大変な仕事を時間的に無理なことを承知で引き受けてきた(YBSシリーズ・ヤマハ出版)。そして、僕に助けを求めてきた(ただし僕が編曲しても兼田敏の名前で出版する、というのが条件)。当時の僕は吹奏楽には縁がなかったが、吹奏楽曲を書く経験もしたかったし、お金も欲しかったので手伝いを引き受けた。この体験が吹奏楽との関わりを深めていった。兼田敏との付き合いは生涯続くが、兼田はトランペットの名手だったので金管楽器の使い方がとても上手かった。金管の響きでは兼田に敵わないと思ったし、僕はサックスとクラリネットを少々かじっていたから木管主体の響きを中心に書いていくことが多くなっていった。」


なぜ吹奏楽に?
「運良く、大学卒業時、自分の作品が毎日音楽コンクール(現・日本音楽コンクール)で1位に選ばれて、プロのオーケストラに演奏して貰った事がある。プロの演奏家はとても上手い。だけどリハーサルは1、2回しかないので、言いたいことも言えずにコンサートを迎えてしまう。しかし中学高校の吹奏楽部などは、本当に一生懸命演奏してくれるし、特にコンクールで演奏する場合には半年くらいかけて練習してくれる。作曲家にとって大事なことは『演奏してもらうこと』。せっかく書いても、演奏してくれなければ意味がない。そこで、一生懸命練習して貰える吹奏楽曲を書くようになった。」

先生の作品は、奏者にとってストレスが少なくて、とても良い音がします。
それはなぜでしょう。
「大学卒業後、また、市川市交響楽団に関わらせてもらえて、指揮者をやっていた。そこで曲も書かせて貰っていたけど、演奏するのはみんなアマチュア。技術的に問題があるパートがあるのはアマチュアの宿命なので、少しでも良い響き、良い演奏を目指すなら、アマチュアでも演奏可能な技術レベルで演奏効果が得られるような書き方をしなくてはならない。ただし難しくても奏者が生かされるように書かれたものなら、みんな一生懸命練習してくれる。そのような体験を数々の名曲から学んでいるうちに、今の僕の作風は身についたんだと思う。」

吹奏楽の魅力とは?
「オーケストラと吹奏楽の決定的な違いは、オーケストラの主役は弦楽器ということ。ただ、弦楽器は有能すぎて、ある程度適当に書いても大体良い音、良い響きがしてしまう。その点、吹奏楽では弦楽器のような主役はない。言ってみればどの楽器群も主役になれるし脇役にもなれる。管楽器はオーケストラの弦楽器群と比べて個人の技量・音色が目立ちやすい。そのため、アンサンブルも弦よりはるかにシビア。しかし、だからこそオーケストラには出せない新鮮な音色が出せるんじゃないかと、、、それに、管楽器は組み合わせで全く色彩が変わるので試行錯誤する楽しみが多い。まるでカクテルを作るみたい。曲を作るたびに楽器の組み合わせや配合を工夫しているけど、毎回どんな音がするんだろうと、とても楽しみ。」


3.吹奏楽コンクール課題曲について

「昔は課題曲は公募作品のほうが少なかったが、いまでは若い作曲家にとって、吹奏楽コンクール課題曲に応募することは自分の作品を世に出す、とても良いきっかけとなっている。故・真島俊夫さんの『波の見える風景(1985)』も後藤洋さんの『即興曲(1976)』も、公募作品。課題曲がきっかけで世に名が知れた作曲家はたくさんいる。それは本当に素晴らしいこと。
ただ、作曲者たちが配慮すべきことは、課題曲は、中・高校生が半年かけて、ずっとずっと練習するもので、彼らにとっては『一生の宝物』になる。つまり課題曲は恐ろしいくらい影響力があるということ、、、
だから作曲家たちは、課題曲の社会的な影響力をもっと重く考えて現場の状況を把握し、課題曲として適した作品を書く責任があると思う。」

平成29年度 保科洋先生の課題曲
「インテルメッツォ」について
「上記のことをふまえ、『とにかく歌える曲、そして美しい曲』を書きたかった。」

今の吹奏楽界について、どう思われますか?
「吹奏楽『界』と区切ることに疑問がある。吹奏楽も音楽のジャンルのひとつ。他のジャンルと同等の存在価値があると思う。ただし、言うまでもないけれど吹奏楽も音楽!最近のコンクールの加熱はやや気になる(勝ち負けにこだわり過ぎ)。指導者は『コンクールの功罪』を的確にわきまえて、生徒の健全な音楽性を守らないといけない。


4.フィル浜、若い人たちへ

フィルハーモニックウインズ浜松との
思い出
「君たちとの出会いは『楽曲分析・解釈講座』(2011年4月)だった。みんな、とにかく一生懸命で、僕の棒についてきてくれて。僕はいまでも君たちを娘、息子みたいに思ってる。最初の出会いが講習会というのが良かった。なぜかというと、もしあれが演奏会、という出会いだったら、2,3日後には本番!と焦ってしまうし納得できるまで細部の表現を試みることもできない、言いたいことも本音では言えなかったはず。でも、あの時は、まず講習会だったから、さまざまな表現を試す、学ぶ、という作業を素直にやれた。あの時の気持ちを今もこれからもずっと持ち続けていてほしい。」

これから音楽の道を
志す若い人たちへ、メッセージを。
「本当に音楽が好きだったら、仕事にしないほうがいい。
理由は、音楽の嫌なことも知らなきゃいけないから。でも、既に進んでしまっている人たちにはただ一言『初心を忘れないで!!』と言いたい。皆んな音楽が好きでこの道に入ったはず、その生涯の伴侶として選んだ音楽をないがしろに扱うのはすなわち自分をないがしろにすること!自分のアイデンティティーを自ら貶めることだけはやめよう、、、音楽の素晴らしさを生涯追い求めて欲しい!音楽にはそれだけの深み・奥行きがある。
僕が音楽の道に進んだのは、本当に若気の至り。親にも周りにも『音楽で生きてく!』と宣言してしまい後に引けなくなって、、、でも後悔はしていない。そして、今がある。(笑)

自分がプロであるかどうかは、『他人が決める』こと。
あの人の作品が良い、あの人の演奏が良い、って周りの人が言った時、その人にとってあなたはプロとして評価されたのである。
僕は自分で自分をプロと言った事がない。」


5.ご自身の作品、そして
先生にとって音楽とは。

ご自身の好きな作品、嫌いな作品は
ありますか?
「作品は子供みたいなもの。一つの曲でも曲中に好きなフレーズがあったり嫌いなフレーズがあったりする。親として、子供にこういう人間に育ってほしいと切に願っても決して子供は思い通りにならずに自分の生き方を貫いて成長するように、曲も勝手に育って行く。曲とは、演奏者の手に渡れば、さまざまな顔(表情)を見せながら一人歩きしていく。その中には魅力的な顔もあれば見たくもない顔もある、でも今はそれらをひっくるめて楽しもうと思っている。皆さんがよく演奏してくれる『風紋』も、いまでは最初に僕が創作時に思っていた内容を超えて、どんどん成長していっている。」
「曲も一人歩きするけど、タイトルはもっと一人歩きしていく。とくに『復興』、あれはヤマハ吹奏楽団の結成50周年に書いたので、これまでのヤマハの長い歴史に思いを馳せつつ、未来の更なる飛躍への期待をイメージしてタイトルを決めたが、演奏する人によってその意味が変わることがある。2013年の第3回62万石吹奏楽祭という仙台で行われた一般団体の吹奏楽フェスティバルの最後、各団体から選ばれた合同バンドの皆さんが『復興』を演奏してくれた。その時の鬼気迫るようなものすごい演奏は今でも忘れられない!その2年前におきた、2011年東日本大震災からの『復興』への演奏者の思いが、曲に乗り移ったからに違いない。作品は、作曲家のもとを離れ、演奏者一人一人の曲へと広がっていく。」

保科先生にとって、音楽とは?
「僕にとって音楽は『僕の生きている証』、『生き様を表現する場所』。もちろん、自己を肯定・表現するには将棋でもスポーツでも何でもいいんだけど、たまたま僕は、音楽と出逢って音楽が好きだっただけ(幸せ!)。」
「謙虚な心が無い限り、音楽はできるわけがない。何度も言うが、音楽をないがしろにすることは、自分を否定することと同じ。音楽を大切にすることが自分のアイデンティティーを守ることに繋がるのだから、、、高校野球の試合を見ていると、技術的にはプロ野球のレベルにはかなわないにもかかわらず思わず感動させられてしまうように、アマチュアオケ・バンドが演奏する一音一音にかける思いは、仕事モードで演奏するプロの音よりずっと音楽の感動がある、という体験を数え切れないほどしてきた。音楽は心の叫び!技術はそのための単なる道具にすぎない!だから僕は、一生『良いアマチュア』でいたいと思う。」


6. 傘寿を迎えられて

80歳、傘寿を迎えられて、いまのお気持ちを
「僕は、約10年前に大きな病気をして手術をした。大動脈解離という自覚症状がなく死亡率80パーセントという恐ろしい病気。いまこうして生きているのは、これはもう神様から授かった新しい命だと思っている。
手術後に決めたことはストレスをかけないために『もう嫌なことはしない!好きな事だけやる!』ということ。仕事も全てマイペース。でも、好きな事だけをしていたら、いつの間にか80歳になってしまった!しかも80歳とは思えないくらい忙しい。(笑)」

これからチャレンジしたいことはありますか?
「著書『生きた音楽表現へのアプローチ(1998)音楽之友社』の再編を試みたい。この本は、当時、勤務していた兵庫教育大学の大学院生達に懇願され、彼らの論文の資料に使えたら、と書いたもの。しかし、論文用とあって、中身が非常に堅苦しい。そして、この本を書いた後、書かれている内容の検証をしてみて、大筋の記述には改めて自信を持ったけど、部分的には修正したいこと、新たにわかったことなど手直ししたい。再編といっても、新しく本を出すのではなく内容を分冊にしてインターネットや簡単なガイドブックのような形で発表できたら、と娘と話しているところ。」


聞き手:小久保まい